風と緑

慌ただしい毎日を少しだけ忘れて、のびのびと綴っていきたいです

他人がどうあれ、環境がどうあれ、自分に自信を持って前向きに生きることはできるはずだ。あいつさえなければ、と恨みを抱えた人間がいる。何年間も恨み続け、ついに「あいつ」は目の前から去っていった。しかし、恨みと不安は止まない。仕事さえなければ、あんなことをしなければ、恨みは対象を変え、心の中に住み続ける。そして、あいつさえいなければ、と、去っていった相手にまだ恨みを抱き続ける。要は対象はなんでもいいんだ。恨み続け、自分の不幸と惨めさを押し付ける対象を探しているだけだ。できない理由がほしいのだ。単にやりたくないのだ。何をやりたくないか、人生をやりたくないのだ、生きることが嫌なのだ。

苦しみから抜け出すにはどうすれば良いのか。やるべきことをやるだけだ。やりたくなかろうと、できなかろうと、目の前の人生に主体的に取り組むことだ。その先に何があるか、それは知らない。世間一般の幸せからは遠ざかるかもしれない。それでも、やるしかないのだ。

人の役に立つこと、人を喜ばせること、人の笑顔があるかもしれない。責任を楽しみと思えるか。やるべきことを、やれる範囲でやるだけだ。いつの日か、振り返った道を見て、いかに美しく楽しい旅だったのか、気付けるはずだ。

自由になりたい

あらゆることから自由になりたい。それは、今いる場所から逃げ出すのではなくて、今いる場所にいるまま、何も変えないで、自由になることができるのではないか。

そのためには、変えようとしないこと、所有しようとしないこと。自分の思う通りに、人や出来事を動かそうとしないこと。人は人。自分の望みとは無関係に生きている。

未来のことを考えないこと。人生の意味を考え始めるのは、未来に何かが待っていると思うから。残念ながら、何も待っていない。長いマラソンの果てに、ゴールテープはない。将来の幸福、幸せな老後、そんなもの考えたらいけない。道は先に続かない。今は未来への準備期間ではない。今が人生のゴール。今そのものが目的なんだな。

成長していけるか

自分は、苦手な事や、苦手な人が多い。苦手な仕事も、苦手な場面もたくさんある。 例えば、こんなことが苦手だ。人に心を開くこと、客観的な思考、気持ちの切り替え、人の気持ちを想像すること、人を喜ばせること、問題をその場で解決すること。 これらの苦手な事をやろうとすると、脳みそが痺れたような心地になる。無意識で「やっちゃダメ!」と指令が出る。この指令は一体なんなんだろうか。 現実に向き合えない、人と関われない、やるべき事をやれない、こんな損な命令ってあるか?でも、この指令にも、かつて何かのメリットがあったから、守り続けているんだろう。この指令のメリットってなんなんだ。身を守ることだろうか。心を開かないことで、他人に期待を裏切られる、傷つけられるリスクを減らしているのだろうか。現実に向き合わないことで、何を守っているのだろうか。

幸福を目指して

私は私のために生き、あなたはあなたのために生きる。私はあなたの期待に応えて行動するためにこの世に在るのではない。そしてあなたも、私の期待に応えて行動するためにこの世に在るのではない。もしも縁があって、私たちが出会えたのならそれは素晴らしいこと。出会えなくても、それはしかたのないこと。 フレデリック・パールズ

人生の目的は幸福になることだ。幸福とはなんだろう。静寂、繋がり、暖かさ、信頼、健全な努力、励まし、勇気、笑い、明るさ、朗らかさ。

全ての人と仲良くすることはできない。仲良くできなかったことを否定的にとらえる必要もない。全ては変わっていく。判断せず、裁かず。 忘れること、立ち去ること、別れることさえ幸福への道程だ。助けられない、救えない、分かり合えない。与えることもできない。それならば、しがみつかずに、離れること。

冒頭の引用は、20世紀の精神科医で、ゲシュタルト療法の創設者であるフレデリック・パールズによる「ゲシュタルトの祈り」。

人は皆、自分を大切にし、幸福になるために生きている。自分の幸福を犠牲することを要求される関係に、身を置く必要はない。 お互いがお互いを尊重しあって、ともに幸福でいられるなら素晴らしいことだ。そうでない関係が破綻したとしても、それは仕方のないことなのかもしれない。

「別れ」も、必然であるかもしれない。今は辛くても、悲しくても、幸せへの道程であるかもしれない。さようなら。生きていこう。

心の観察日記_2017/07/23

朝起きたとき、みぞおちの上に、重い感情の塊があった。憂鬱の塊だった。憂鬱の中にある本当の感情はなんなのか、じっと見つめてみた。一つは、母親に見捨てられる恐怖だった。もう一つは、嘘をつかれたことに対する驚きだった。二つ目の感情は、うまく言葉にできない。台詞にしてみると「この人は、そういうことをするんだな」という失望、嫌悪感かもしれない。「なぜ、こんなことをしたの?」と問い詰めたい気持ちもあるかもしれない。信頼を裏切ったことへの、怒りかもしれない。でも、信頼を裏切られたとき、どうやって相手との関係をより良いものにしていけるのか。

安心の回路

1日に何度も何度も不安になるんです。多分、安心を感じる脳の回路が、細いんだと思うんです。不安になると居ても立っても居られなくて、焦るんです。何かしなきゃ、何かしなきゃって。背後から崩れ落ちる橋を、必死に走り抜けるような、そんな気持ちになるんです。

この不安って何なんでしょう。将来が不安なわけではないんです。いや、将来は不安なんですが、この不安は、母親がいなくなった時の不安だと思うんです。分離不安?て言うんですかね。母親がいなくて、寂しい、心細い、安心させてほしい、子どもの頃に感じた不安と同じだと思うんです。

不安になりにくい人は、子どもの頃にたくさん抱きしめられて、安心感を得られた人なのではないでしょうか。抱きしめられて、安心を感じて、脳に太い安心の回路ができているのではないでしょうか。

僕はもしかしたら、そうではなかった。でも、今からでも、安心の回路を太くすることはできるのでは、と思っています。身近にいる誰かに抱きしめてもらえれば、僕の細い安心の回路が活性化するのではないでしょうか。そして、その時の感覚を、一人の時でも、感じ直すことができれば。

自我の確立

周りの人は皆大人に見える。輪郭があって、質量があって、中身があるように見える。自分の意思があるように見える。自分は、砂かゼリーでできている気がする。心細い。他人から少しでもぶつかられると、崩れてしまう気がする。怖い。

他人に入ってきてほしくない。自分も、他人に入り込みたくない。影響を与えたくない。でも、このままではつまらないなあ。もっと他人と関わって心を練りたい。今の心は柔らかすぎる。もっと手を入れて、耕して、弾力のある心になりたい。

中身があるように見える他人も、大して中身があるわけではない。結局、人でしかない…。

「自分は誰とも違う」という事を認めるしかない。自分は誰からも理解されない。自分は自分だけの人生を生きる。だけど、他人をはねのけない。他人の存在を認める。異なる考え方、異なる生き方をしている人が隣にいる。分かりあうことはできないけれど、認めることはできる。