風と緑

慌ただしい毎日を少しだけ忘れて、のびのびと綴っていきたいです

何も与えたくない

好かれるよりも、嫌いになる方がマシ。好かれたらどうせ嫌われるだけだし、好かれても、期待に応えることもできないし。好きにならないでもらいたい。自分には何もできないから、面倒くさいから。がっかりされるのも嫌だから、近寄らないでほしい。 近寄らないでと壁を作り、相手を遮断した後で、相手が離れていくのが寂しすぎる。自分が嫌いになる。自分からは何も与えない、何も関与しない。それでも相手にそばにいてほしい。相手からは追われたい。自分からは出さない。 これが俺の正体なんだ。 絶望も自己卑下もしない。目を閉じて、思い浮かべて、眠るだけ。

どう足掻いても

どう足掻いても自分は愛されている。どんなに怒っても、悲しんでも、愛は自分から離れない。自分は幸せだ。そう思えればいいんだよな。徐々にそう思えるようになっている気がする。何のことはない、自分は結局幸せなのだ。 できれば周りの人たちにも幸せになってもらいたいと願う。周りの人が不幸になっているのを見たくない。でもそれは俺の期待でしかないのかな。ま、何とかなるんだな。大丈夫。

自分は冷たい人間なんだろうか。冷たい人間だと思われることに、どんなメリットとデメリットを感じているのか?結局は嫌われるのが怖いのかな。俺の望む物をお前は与えてくれない、であれば俺はお前を切り捨てる。要するに自分勝手な人間ってことです。

でもね、あなたに対して何かを提供することで、自分にとってのメリットが何にもないですよ。時間や労力がかかるんですよ。ただじゃないから。それを冷たいと評しますか?

期待することは何もないし、提供できるものは何もない。寂しい生き方ですかね、でも、他人だからね。仕方ないですよ。

なんとかやっている

今週も一週間、長く感じた。仕事中でも気持ちが動揺してしまう場面が多く疲れる。精神的に引きこもり、壁を作っている。心を開いて人と話すことはほとんどない。だから、人と話すと動揺してしまう。この先どうすれば良いのだろう。心を閉じたまま生きていくことはできない。心を開き、人間関係の輪に飛び込まない限り、未来はない。そのうちなんとかなるだろう。今は待つことを許そう。

目の前の物に興味を持つ

精神的に不安定になって二年ほど、目の前の物に興味を持っていなかった。ここ二年間の記憶がほとんどない。断片的な記憶はあるが、繋がっていない感じ。特に、プライベートの記憶がほとんどない。 明日から、目の前のことに少し興味を持ってみよう。悩みだけにフォーカスしすぎていた。現実に興味を持って、楽しんでみよう。 本当に、今までどうかしていた。悩む必要のないことで、ずっと悩んでいたのかもしれない。現実はたくさんのギフトをくれるのに、全部見て見ぬ振りをしていた。。。

■今日あった良い出来事

・水が美味しかった

・サンドイッチに入っていたハムが美味かった

・夜風が涼しかった

・昼寝から目覚めたら頭がスッキリしていた

・しっかりと休養をとれた

・ゴルドベルク変奏曲をゆっくり聴けた

愛を受け取ることについて

f:id:airport8:20161105185953j:image今まで、愛を受け取っていなかった。自分は人から愛されない、受け入れられない存在だと思っていた。だが、実際は違っていた。自分が、人の愛や好意を疑い、拒否していた。自分が愛に気付いていなかった。

なぜ、愛に気付けなかったのか。それは「自分の望み」のことしか考えていなかったからだ。「自分の望み」しか頭にないから、望みと違うものは、受け取れない。その人が、その人らしい方法で愛してくれても、気付けない。そして、自分の望む大きさの愛が得られないと「裏切られた」と感じる。

これは、幼少期の親との関係に、原因がある気がしている。子どもの頃に、親から受け入れられなかったという記憶が作られてしまい、その思考の癖が抜けないのではないか。

これら幼少期の心の傷を克服するためには、「受け入れられなかった」とか「傷付いた」という記憶を、別の感情で上書きすることが有効かもしれない。具体的には、当時の親の立場になって考えてみることだ。親からの理不尽な扱いに対して「なぜ、親はあのような態度をとったのだろうか?」と、親の立場で気持ちを想像してみる。すると、理不尽な仕打ちの背後にあった、親自身の罪悪感や自己嫌悪に気付ける。そして、親なりの思いやりに気付けるかもしれない。親の思いに気づけた時「自分は既に愛されていたのだ」と分かるだろう。

自分はきっと受け入れられないと思ってきた。今までずっと、自分の心が傷付かないように、壁を作ってきた。どれだけの思いやりを、見過ごしてきたのだろう。差し伸べられた手を払い除け、どれだけ他人を傷つけてきたのだろう。

自分が愛されていることに気付けると、他人にも愛を供給できるようになれるという。自分自身の愛を満たし、他人を愛せるようになりたい。

放り投げる一日

自分自身を他人の間に放り投げる。「もうどうでもいいよ」という気持ちが、他人と接することを楽にしてくれる。コミュニケーションに正解なんてない。感情を素直に表現して、好かれるときは好かれるし、嫌われるときは嫌われる。他人にどう思われるかなんて、どうでもいいことだ。やりたいようにやる。それでも嫌われるし、好かれる。

他人の間に自分を放り投げる。これを言ったらどうなるだろうなんて、考えるだけ無駄かもしれない。言ってみたらいい。傷つくかもしれない。傷つけるかもしれない。案外無傷かもしれない。

自分の考え、自分の言葉、自分の感情に自信を持っていい。感じることに正解も不正解もない。感情を率直に表現する。もちろん丁寧な言葉で。現実に、世界に、人と人との間に、自分の感情、自分の意見を放り出す。そうすることで自分の輪郭が露わになる。自分という人間が、他人との関係の中で浮かび上がる。

内面の言葉

自分の内面にある感情を、言葉によって表現することができない。言葉によって人に伝えることができない。人に自分の感情を表現することができない。感情を伝えたい。感情によって、わかり合いたいと思っているのに、うまくいかない。いつからこんな風に過ごすようになったのだろうか。小学生?中学生?あるいはもっと前から?

思えば、感情を言葉で表現することをずっと諦めていたような気がする。どうせ分かってもらえないから。それとも、感情を露わにすることで、嘲笑の的になる恐怖を、感じていたからだろうか。

感情を言葉にして伝えることで、人に分かってもらえる、共感してもらえるという経験を積んでこなかったのかもしれない。原因は、共感し合えなかった親にあるのかもしれないし、周りに心を開いてこなかった、自分にあるのかもしれない。

誰かに自分の感情を伝えさせてほしい。誰かに頷いてほしい。行き場を失った感情をこうして文章にしている。