風と緑

慌ただしい毎日を少しだけ忘れて、のびのびと綴っていきたいです

爽やか

他人が不幸でも、意地悪でも、卑怯でも、ずるくても、依存的でも、敵対的でも、自分のことを認めていなくても、許せなくても、仕事がきつくても、友達がいなくても、いても、孤独でも、なんでもいいよ!

自分自身だけ、とにかく自分自身だけが明るく爽やかであればいいのだ。爽やかに生きる、そんで死ぬ!

それしかないんだ結局は。

俺の意識は嘘ばかりつく

俺の言っていることは、大抵が嘘だ。俺の言葉は、嘘ばかりだ。俺の意識が、嘘をついているから。

俺は他人を馬鹿にしている。誰のことも大事とも好きだとも思っていない。いや、それは嘘だ。自分が大事にされたいし、好かれたいんだ。

馬鹿な連中が、馬鹿みたいな生き方してるとしか思ってる。自分のことを高尚な人間だと思いたいからね。なぜ高尚な人間になりたがる。怖いんだ。人と世間が怖いんだ。他人の価値観に対して、「教養」「高尚」なんていう価値観で、抵抗しなければと思っているんだ。

自分は馬鹿だ。弱虫だ。自分のことを馬鹿にしてるし、嫌ってる。自分の人生と現実が大嫌いなんだ。ありのままの自分を愛すること、受け入れることができないんだ。

愛とは何か。理解することだ。受け入れることだ。自分の理想と合致しているもの、自分の理想を脅かさないものだけを愛する、そんな風にはいかないんだ。

いま目の前の、俺の人生、俺の現実。評価する必要なんてない、ただ受け入れるだけだ。

海中に沈んだ都市が、徐々に浮かび上がってきて、見えなかったその全貌が見えるようになってきている。深いところから無意識を引っ張り出して、白昼堂々晒してやりたい。のたうちまわる深海魚。本質は醜悪でも美しくもない。ただそこに、意味を持たずに転がっているだけ。丸ごと全部自分なんだ。

Dark side of moon

ピンクフロイドの狂気を聴いている。今時こんな音楽を聴いているのは時代遅れにもほどがあるだろうか。しかし、ピンクフロイド好きなのですよ。

と言いつつ「狂気」は何度聴いても良さがよくわからないんだよなあ。なんというか、曲調がキャッチーで、普通のロックアルバムなのでは?と感じてしまう。B面のUs and then からの流れは好きなんだけど…。

キャッチーなのにコンセプチャルなのが良いのかな?

ピンクフロイドで好きなのはザ・ウォール。暗くて暗くて、とても良い。特にComfortably numbが最高に好きなのだが、もしかしてギルモアが好きなのかなあ。

"Comfortably Numb" solo - David Gilmour, Royal Festival Hall - YouTube

普通の人生

仕事や人生について悩むことがあるが、この悩みは僕に固有の悩みではなく、年齢によってありがちな悩みなのだろう。人の悩みは、その人に固有の悩みではなく、年齢によってありがちな悩みなのではないだろうか。

現代は先の見えない時代、かつてない混沌とした時代のような気もするが、おそらくそんなこともないのではないか。世界はいつだって混沌としていたのではないか。

人間の本質は変わらないし、人間の世界で起こる出来事、私の悩みも、もう幾度ともなく繰り返されてきたことなのかもしれない。

愛は無関心

他人に期待を裏切られても、大して傷つかなくなる。他人は他人。好きに生きればいい。そのうち誰にも期待しなくなる。誰かに期待しない、誰かを責めない、それは優しいのと同じだろうか。微笑んでいるけれど、無関心。愛の反対は無関心とよく言うが、自分には愛と無関心が同じものと思える。誰も縛らない。好きに生きてください。

何をやっても責められるのだ

沈黙している者も非難され、多く語る者も非難され、少し語る者も非難される。つまり、世に非難されない者はいない。ブッダ

なぜこんなに仕事が多いのか。人に頼むべきことを頼めていないからだ。なぜ頼めないのか。相手の負担になるのではないかと思うからだ。なぜ負担を増やしてはいけないか。自分が楽をしている様な気がするからだ。

人に仕事を頼むのは、自分が楽をするためではない。本来自分が取り組むべき仕事に、全力を出すためだ。本来自分が取り組むべき仕事がある、つまり、自分には役割があるということだ。やるべきことをやる、自分本来の役割を果たす。それは人に何かを与える行為なのかもしれない。人に影響を与える行為なのかもしれない。

もう、単純作業者ではないのだ。もう、子どもではないのだ。他人から与えられる段階は終わったのだ。自分が与える立場なのだ。

人に影響を与えるのがなぜ嫌か。自分が責任を負うからだ。なんの責任か。相手から責められるリスクを負うと感じるからだ。でも、責められるのが、なんだというんだ。行動しても責められるかもしれないし、行動しなくても責められる。行動しなければ失敗し、皆が不幸になってしまう。本当に、それで良いのか?

おかしいのは自分かもしれない

全ての問題から離れたはずなのに、何も変わらなかった。環境や他人が問題なのではなく、自分の中に問題があることに気付いた。他人の中に見ていた醜悪さを、自分自身の中に見出した。自分自身が、未熟、身勝手で、他人を支配するために画策し、外面だけで生きている人間だった。自分自身がナルシストだった。自分自身がモラルハラスメントだった。

今まで、自分は、自分のことを思いやりがあり、愛情深い人間だと考えていた。しかし、それは間違いだった。というより、他人は自分のことをそんな人間だとは捉えていないと気付いた。よそよそしく、思いやりがなく、冷淡で、上辺だけで人と接している。その様に思われていたかもしれない。

自分自身の中で正当性があっても、感情や思考のプロセスを知らない他人には、私の行動しか見えない。だから、誤解されてしまうのだろうか。現れた行動は決して褒められたものではないだろうし…。

これからの課題は「人の気持ちを考えること」。人のことを考えるということは、他人に服従すること、迎合すること、嫌でも嫌と言わないこと、へりくだること、無理をして合わせることだと思っていた。でも、そうではなかったんだな。人の気持ちを考えて、相手が喜ぶようなことを本心から行えるよう、少しずつ努力したい。