風と緑

慌ただしい毎日を少しだけ忘れて、のびのびと綴っていきたいです

愛は無関心

他人に期待を裏切られても、大して傷つかなくなる。他人は他人。好きに生きればいい。そのうち誰にも期待しなくなる。誰かに期待しない、誰かを責めない、それは優しいのと同じだろうか。微笑んでいるけれど、無関心。愛の反対は無関心とよく言うが、自分には愛と無関心が同じものと思える。誰も縛らない。好きに生きてください。

何をやっても責められるのだ

沈黙している者も非難され、多く語る者も非難され、少し語る者も非難される。つまり、世に非難されない者はいない。ブッダ

なぜこんなに仕事が多いのか。人に頼むべきことを頼めていないからだ。なぜ頼めないのか。相手の負担になるのではないかと思うからだ。なぜ負担を増やしてはいけないか。自分が楽をしている様な気がするからだ。

人に仕事を頼むのは、自分が楽をするためではない。本来自分が取り組むべき仕事に、全力を出すためだ。本来自分が取り組むべき仕事がある、つまり、自分には役割があるということだ。やるべきことをやる、自分本来の役割を果たす。それは人に何かを与える行為なのかもしれない。人に影響を与える行為なのかもしれない。

もう、単純作業者ではないのだ。もう、子どもではないのだ。他人から与えられる段階は終わったのだ。自分が与える立場なのだ。

人に影響を与えるのがなぜ嫌か。自分が責任を負うからだ。なんの責任か。相手から責められるリスクを負うと感じるからだ。でも、責められるのが、なんだというんだ。行動しても責められるかもしれないし、行動しなくても責められる。行動しなければ失敗し、皆が不幸になってしまう。本当に、それで良いのか?

おかしいのは自分かもしれない

全ての問題から離れたはずなのに、何も変わらなかった。環境や他人が問題なのではなく、自分の中に問題があることに気付いた。他人の中に見ていた醜悪さを、自分自身の中に見出した。自分自身が、未熟、身勝手で、他人を支配するために画策し、外面だけで生きている人間だった。自分自身がナルシストだった。自分自身がモラルハラスメントだった。

今まで、自分は、自分のことを思いやりがあり、愛情深い人間だと考えていた。しかし、それは間違いだった。というより、他人は自分のことをそんな人間だとは捉えていないと気付いた。よそよそしく、思いやりがなく、冷淡で、上辺だけで人と接している。その様に思われていたかもしれない。

自分自身の中で正当性があっても、感情や思考のプロセスを知らない他人には、私の行動しか見えない。だから、誤解されてしまうのだろうか。現れた行動は決して褒められたものではないだろうし…。

これからの課題は「人の気持ちを考えること」。人のことを考えるということは、他人に服従すること、迎合すること、嫌でも嫌と言わないこと、へりくだること、無理をして合わせることだと思っていた。でも、そうではなかったんだな。人の気持ちを考えて、相手が喜ぶようなことを本心から行えるよう、少しずつ努力したい。

他人がどうあれ、環境がどうあれ、自分に自信を持って前向きに生きることはできるはずだ。あいつさえなければ、と恨みを抱えた人間がいる。何年間も恨み続け、ついに「あいつ」は目の前から去っていった。しかし、恨みと不安は止まない。仕事さえなければ、あんなことをしなければ、恨みは対象を変え、心の中に住み続ける。そして、あいつさえいなければ、と、去っていった相手にまだ恨みを抱き続ける。要は対象はなんでもいいんだ。恨み続け、自分の不幸と惨めさを押し付ける対象を探しているだけだ。できない理由がほしいのだ。単にやりたくないのだ。何をやりたくないか、人生をやりたくないのだ、生きることが嫌なのだ。

苦しみから抜け出すにはどうすれば良いのか。やるべきことをやるだけだ。やりたくなかろうと、できなかろうと、目の前の人生に主体的に取り組むことだ。その先に何があるか、それは知らない。世間一般の幸せからは遠ざかるかもしれない。それでも、やるしかないのだ。

人の役に立つこと、人を喜ばせること、人の笑顔があるかもしれない。責任を楽しみと思えるか。やるべきことを、やれる範囲でやるだけだ。いつの日か、振り返った道を見て、いかに美しく楽しい旅だったのか、気付けるはずだ。

自由になりたい

あらゆることから自由になりたい。それは、今いる場所から逃げ出すのではなくて、今いる場所にいるまま、何も変えないで、自由になることができるのではないか。

そのためには、変えようとしないこと、所有しようとしないこと。自分の思う通りに、人や出来事を動かそうとしないこと。人は人。自分の望みとは無関係に生きている。

未来のことを考えないこと。人生の意味を考え始めるのは、未来に何かが待っていると思うから。残念ながら、何も待っていない。長いマラソンの果てに、ゴールテープはない。将来の幸福、幸せな老後、そんなもの考えたらいけない。道は先に続かない。今は未来への準備期間ではない。今が人生のゴール。今そのものが目的なんだな。

成長していけるか

自分は、苦手な事や、苦手な人が多い。苦手な仕事も、苦手な場面もたくさんある。 例えば、こんなことが苦手だ。人に心を開くこと、客観的な思考、気持ちの切り替え、人の気持ちを想像すること、人を喜ばせること、問題をその場で解決すること。 これらの苦手な事をやろうとすると、脳みそが痺れたような心地になる。無意識で「やっちゃダメ!」と指令が出る。この指令は一体なんなんだろうか。 現実に向き合えない、人と関われない、やるべき事をやれない、こんな損な命令ってあるか?でも、この指令にも、かつて何かのメリットがあったから、守り続けているんだろう。この指令のメリットってなんなんだ。身を守ることだろうか。心を開かないことで、他人に期待を裏切られる、傷つけられるリスクを減らしているのだろうか。現実に向き合わないことで、何を守っているのだろうか。

幸福を目指して

私は私のために生き、あなたはあなたのために生きる。私はあなたの期待に応えて行動するためにこの世に在るのではない。そしてあなたも、私の期待に応えて行動するためにこの世に在るのではない。もしも縁があって、私たちが出会えたのならそれは素晴らしいこと。出会えなくても、それはしかたのないこと。 フレデリック・パールズ

人生の目的は幸福になることだ。幸福とはなんだろう。静寂、繋がり、暖かさ、信頼、健全な努力、励まし、勇気、笑い、明るさ、朗らかさ。

全ての人と仲良くすることはできない。仲良くできなかったことを否定的にとらえる必要もない。全ては変わっていく。判断せず、裁かず。 忘れること、立ち去ること、別れることさえ幸福への道程だ。助けられない、救えない、分かり合えない。与えることもできない。それならば、しがみつかずに、離れること。

冒頭の引用は、20世紀の精神科医で、ゲシュタルト療法の創設者であるフレデリック・パールズによる「ゲシュタルトの祈り」。

人は皆、自分を大切にし、幸福になるために生きている。自分の幸福を犠牲することを要求される関係に、身を置く必要はない。 お互いがお互いを尊重しあって、ともに幸福でいられるなら素晴らしいことだ。そうでない関係が破綻したとしても、それは仕方のないことなのかもしれない。

「別れ」も、必然であるかもしれない。今は辛くても、悲しくても、幸せへの道程であるかもしれない。さようなら。生きていこう。