記憶・イメージ
子どもの頃、泣き喚いていると、「もっと泣けもっと泣け」と親に囃し立てられていた。その時に「他人になにを言っても無駄だ」という性格になったのかもしれない。受け入れてもらえず、聞いてもらえないことで「他人に対して自分は無力だ」という価値観を身につけたのかもしれない。
子どもの時は手も足も出なかった。でも、今なら違うかもしれない。認めて欲しくて、泣き叫んで、それでも認めず、受け止めない、からかい、嘲笑う親に対して「いい加減にしろ!」と言ってやれるかもしれない。
低い声で「おまえ、いい加減にしろよな」と。実際に声に出してみる「おまえ、いい加減にしろよな」
そうするとどうなる?大人しくなるか、逆上してさらに挑発されるかだ。そうなれば、諦めて背を向け立ち去る。立ち去る背中越しに、また挑発の声が浴びせられる「あーあ!もう終わりなの!?つまんない!負け犬!」
そこで振り返らず、さらに俺は進む。さらに声は続く。
「あんた、私を見捨てる気でしょ!いいわよ!あんたなんていらないわよ!どこにでも行きなさいよ!」
記憶なのか、イメージなのか分からない。だけど、こんなパターンが簡単に想像できる。つまり、どこかで、似たようなことがあったのだろう。
今はもう、子どもじゃない。今はもう、非力ではない。手も足も出なかったのは、昔のことだ。うずくまって泣いている子どもの自分が、大人の自分になって、立ち上がる、自分の言葉を発する、決断する。
そんなイメージをすると、胸の奥のしこりが少し解きほぐれていくのを感じる。自分の気持ちを取り戻しつつあるのを感じる。