風と緑

慌ただしい毎日を少しだけ忘れて、のびのびと綴っていきたいです

一歩

私は私。あなたはあなた。私はあなたを助けられないし、あなたの感情には対処しない。

私の中にも、甘えたい気持ちがある。甘えて、怠けたい気持ちがある。甘えを一気に捨てて、自立したふりをするのはやめる。

私の心の中に、甘えたい、怠けたいという気持ちがある。自分の心を認める。今の自分を認める。自分は甘えたい、自分は怠けたい。他人と比べるのをやめる。これが今の自分。それ以上でも以下でもない。

静かに、落ち着いて一歩を踏み出す。現実の中に、ゆっくりと足を踏み出す。甘えを自覚しながら、今できることを、静かに行う。

好きなことがない、やりたいことがない、自発性がない。悩みは一瞬で解決しない。どうなろうとも生きること。目の前の現実を生きること。そこから人生がはじまる気がする。

酸っぱいブドウか

もともと他人に興味がないのか、認められない、好かれないから、興味のないふりをしているのか。興味のないふりをするのは楽だ。俺は嫌われても、仲間外れでも、気にしない、そう言って自分を守ることができる。

かといって、明るくいなければ、溶け込まなければと、好かれなければと演技したくない。自分を偽る生き方を続けた結果、完全に行き詰まってしまった。

自分に足りないのは、社会性かもしれない。好きだろうが嫌いだろうが、興味がなかろうが、社会の中で生きるためには、社会性、仮面、振る舞いが必要だ。自分を偽るためではなく、心を開くために必要だ。

数十年生きてきて、ようやくこんな基本的なことに気付き始めている。でもまだ遅くないだろう。死ぬまでには、気楽に生きられるようになっていたい。

好きに生きたらいいよ

自由に生きるということは、欲望を追求するということではない。欲望から離れることだ。かといって禁欲的に生きることではない。

他人にわがままを押し付けたり、無理やり自分を認めさせることでもない。かといって服従し、支配されることでもない。

空っぽになって浮かんでいるだけ。だけど流されることではない。好きでも、嫌いでもない。だけど無関心でもない。

好き、嫌い、無関心、敵、味方、上、下。それはただの言葉だ。

判断せず、眺める。 必要なら、伝える。

はしゃぐでもなく、悩むでもなく、とにかく軽く生きたい。羽のように、雲のように、空気のように軽く、漂いながら生きたい。

漂いながら、繋がりながら、自由に生きたい。

幸福

自分を幸せにしてくれない場所、幸せにしてくれない人を追いかけている。求めて、期待して、与えられないものに対して、怒り傷ついている。自分を軽蔑している人を、立派な人、価値のある人と思い込んでいる。

自分を幸せにしてくれる場所や人になぜ気付けない。愛していない、信頼していない、心を開いていないからだ。自分に何かを要求するでもなく、ただそこにいてくれる人達、彼らに感謝しているか。上も下も、勝ち負けもなく、笑って接してくれる人達に感謝しているか。周りにいる人たちを軽蔑していないか。

俺は本当に、取るに足らない人間だ。真にちっぽけな人間だ。ただここにいるだけの人間だ。そんな自分も、生かされているのに。存在を認められているのに。そこに気付ければ、道は開けるのではないか。

「今の自分をありのままに認めること」「自分を受け入れること」そうすれば楽になれるらしい。自分を受け入れる、とはどういうことなんだろう。考えることではなくて、行動することだ。周りにいる人達を軽蔑しないことだ。人の純粋さ、思いやり、ほんの少しの親切、優しさに気付くことだ。

愛と信頼

信頼されているのか、利用されているのか、その違いはどこにあるのか。それは受け取る人の心にある。自分なんてなんの価値もない、そう思っていると、他人から利用されたと感じてしまう。自分は人に何かを与えられる、そう思えれば、人から信頼されていると感じることができる。信頼されていると思っていたが、実は利用されているだけだった場合は?それは自分が見返りを要求していたということだ。自分のことを信頼できる人は、他人のことも信頼できる。自分が与えた、そこで終わり。与えっぱなしで、後は放っておくこと。与えることのできた自分は素敵だなあ。そう思っていれば良い。

与えることができた。それは愛の仕事だ。罪悪感や、自己犠牲の精神は捨てること。君がハッピーならそれでいい。みんなに対して与えていこう。ただし、嫌だな、と思うことはやらないこと。無理していい顔しないこと。続けていると愛がなくなるからね。

そして、人から愛が注がれた時は、惜しみなく受け取ること。心を全開にして、相手の好意を受け取ること。それで全てが循環していく。愛し、愛され、受け取る、受け入れる。愛は奪いとるものではなく、与えるもの。そして、受け取るもの。

執着しない

自分は執着性格なのだろうか。しかし、終わった事、変わらない事をいつまでも悩み続けるのは、自分でも馬鹿馬鹿しいと思う。

執着しないために、苦行を行う必要はない。悟りを開かなくてもいい。いつでも、何があっても自分の感覚、感情に敏感であること。自分の感覚、感情を尊重すること。それは自然でいるということだ。

真面目をやめてもっと自由に生きたくて、悪くなるにはどうすればいいのか、真剣に考えていた。だけど、別に悪くなる必要もない。自分が自然でいられるように振る舞えばいい。やりたくないことはやらない。罪悪感や後悔を感じるようなことはやらない。楽しめること、気持ちのいい事をたくさんやる。

自分の心に耳をすませる。もしもし自分、あなたは何がしたい?

静かに穏やかに、健やかに楽しく、のんびりと笑って生きたい。悲しいことは好きじゃない。悲しんでいる人、怒っている人を助けることはできない。

他人の課題は解決できない。ごめんなさい、感情の面倒は見れない。自分の気分を優先する。これが自分を大切にするということなのだろうか。少しずつ分かりはじめている。

誠実

楽器も弾けず、絵を描く道具もないので、文章を書いている。物語なのか、エッセイなのか、詩なのか、書きたいものは分からない。ただ、テーマがあり、形になった文章になっていれば良いと思う。

自分の悩みはミッドライフクライシスなのだろうか。だとすれば、今は成熟の時期ということになる。精神の成熟と、ビジネス、その両方を成し遂げなければいけないのが、辛いところだ。自分の抑圧していることに気付かず、一生を終えられたら、幸せだったのかもしれない。幸せな人生とは、なんなのか、よく分からない。

誠実さ、というキーワードを得た。他人に対して誠実であろうと努めたつもりだったが、自分自身に誠実な生き方をしてこなかった気がしている。他人の顔色を伺って、ありもしない要求を感じ取って、適応しよう適応しようと、自分を偽りすぎてしまった。我慢して、抑圧して、きちんと伝える事をせずに、関係を断絶して、そんなことばかり繰り返してきた。

もっと自分の心に耳をすませて、自分を大切にしてやればよかった。自分に誠実にできて、初めて他人にも誠実になれるのだろう。誠実であるとは、他人を認める、尊重するということなのではないか。ありのままの相手を認めること、ありのままの私をきちんと伝える事。

これからは、自分の心に耳をすませて、何がしたいのか、どう生きたいのか、考えてみたい。分かり合えないかもしれないが、伝える事を放棄しないようになりたい。