風と緑

慌ただしい毎日を少しだけ忘れて、のびのびと綴っていきたいです

好きに生きたらいいよ

自由に生きるということは、欲望を追求するということではない。欲望から離れることだ。かといって禁欲的に生きることではない。

他人にわがままを押し付けたり、無理やり自分を認めさせることでもない。かといって服従し、支配されることでもない。

空っぽになって浮かんでいるだけ。だけど流されることではない。好きでも、嫌いでもない。だけど無関心でもない。

好き、嫌い、無関心、敵、味方、上、下。それはただの言葉だ。

判断せず、眺める。 必要なら、伝える。

はしゃぐでもなく、悩むでもなく、とにかく軽く生きたい。羽のように、雲のように、空気のように軽く、漂いながら生きたい。

漂いながら、繋がりながら、自由に生きたい。

幸福

自分を幸せにしてくれない場所、幸せにしてくれない人を追いかけている。求めて、期待して、与えられないものに対して、怒り傷ついている。自分を軽蔑している人を、立派な人、価値のある人と思い込んでいる。

自分を幸せにしてくれる場所や人になぜ気付けない。愛していない、信頼していない、心を開いていないからだ。自分に何かを要求するでもなく、ただそこにいてくれる人達、彼らに感謝しているか。上も下も、勝ち負けもなく、笑って接してくれる人達に感謝しているか。周りにいる人たちを軽蔑していないか。

俺は本当に、取るに足らない人間だ。真にちっぽけな人間だ。ただここにいるだけの人間だ。そんな自分も、生かされているのに。存在を認められているのに。そこに気付ければ、道は開けるのではないか。

「今の自分をありのままに認めること」「自分を受け入れること」そうすれば楽になれるらしい。自分を受け入れる、とはどういうことなんだろう。考えることではなくて、行動することだ。周りにいる人達を軽蔑しないことだ。人の純粋さ、思いやり、ほんの少しの親切、優しさに気付くことだ。

愛と信頼

信頼されているのか、利用されているのか、その違いはどこにあるのか。それは受け取る人の心にある。自分なんてなんの価値もない、そう思っていると、他人から利用されたと感じてしまう。自分は人に何かを与えられる、そう思えれば、人から信頼されていると感じることができる。信頼されていると思っていたが、実は利用されているだけだった場合は?それは自分が見返りを要求していたということだ。自分のことを信頼できる人は、他人のことも信頼できる。自分が与えた、そこで終わり。与えっぱなしで、後は放っておくこと。与えることのできた自分は素敵だなあ。そう思っていれば良い。

与えることができた。それは愛の仕事だ。罪悪感や、自己犠牲の精神は捨てること。君がハッピーならそれでいい。みんなに対して与えていこう。ただし、嫌だな、と思うことはやらないこと。無理していい顔しないこと。続けていると愛がなくなるからね。

そして、人から愛が注がれた時は、惜しみなく受け取ること。心を全開にして、相手の好意を受け取ること。それで全てが循環していく。愛し、愛され、受け取る、受け入れる。愛は奪いとるものではなく、与えるもの。そして、受け取るもの。

執着しない

自分は執着性格なのだろうか。しかし、終わった事、変わらない事をいつまでも悩み続けるのは、自分でも馬鹿馬鹿しいと思う。

執着しないために、苦行を行う必要はない。悟りを開かなくてもいい。いつでも、何があっても自分の感覚、感情に敏感であること。自分の感覚、感情を尊重すること。それは自然でいるということだ。

真面目をやめてもっと自由に生きたくて、悪くなるにはどうすればいいのか、真剣に考えていた。だけど、別に悪くなる必要もない。自分が自然でいられるように振る舞えばいい。やりたくないことはやらない。罪悪感や後悔を感じるようなことはやらない。楽しめること、気持ちのいい事をたくさんやる。

自分の心に耳をすませる。もしもし自分、あなたは何がしたい?

静かに穏やかに、健やかに楽しく、のんびりと笑って生きたい。悲しいことは好きじゃない。悲しんでいる人、怒っている人を助けることはできない。

他人の課題は解決できない。ごめんなさい、感情の面倒は見れない。自分の気分を優先する。これが自分を大切にするということなのだろうか。少しずつ分かりはじめている。

誠実

楽器も弾けず、絵を描く道具もないので、文章を書いている。物語なのか、エッセイなのか、詩なのか、書きたいものは分からない。ただ、テーマがあり、形になった文章になっていれば良いと思う。

自分の悩みはミッドライフクライシスなのだろうか。だとすれば、今は成熟の時期ということになる。精神の成熟と、ビジネス、その両方を成し遂げなければいけないのが、辛いところだ。自分の抑圧していることに気付かず、一生を終えられたら、幸せだったのかもしれない。幸せな人生とは、なんなのか、よく分からない。

誠実さ、というキーワードを得た。他人に対して誠実であろうと努めたつもりだったが、自分自身に誠実な生き方をしてこなかった気がしている。他人の顔色を伺って、ありもしない要求を感じ取って、適応しよう適応しようと、自分を偽りすぎてしまった。我慢して、抑圧して、きちんと伝える事をせずに、関係を断絶して、そんなことばかり繰り返してきた。

もっと自分の心に耳をすませて、自分を大切にしてやればよかった。自分に誠実にできて、初めて他人にも誠実になれるのだろう。誠実であるとは、他人を認める、尊重するということなのではないか。ありのままの相手を認めること、ありのままの私をきちんと伝える事。

これからは、自分の心に耳をすませて、何がしたいのか、どう生きたいのか、考えてみたい。分かり合えないかもしれないが、伝える事を放棄しないようになりたい。

爽やか

他人が不幸でも、意地悪でも、卑怯でも、ずるくても、依存的でも、敵対的でも、自分のことを認めていなくても、許せなくても、仕事がきつくても、友達がいなくても、いても、孤独でも、なんでもいいよ!

自分自身だけ、とにかく自分自身だけが明るく爽やかであればいいのだ。爽やかに生きる、そんで死ぬ!

それしかないんだ結局は。

俺の意識は嘘ばかりつく

俺の言っていることは、大抵が嘘だ。俺の言葉は、嘘ばかりだ。俺の意識が、嘘をついているから。

俺は他人を馬鹿にしている。誰のことも大事とも好きだとも思っていない。いや、それは嘘だ。自分が大事にされたいし、好かれたいんだ。

馬鹿な連中が、馬鹿みたいな生き方してるとしか思ってる。自分のことを高尚な人間だと思いたいからね。なぜ高尚な人間になりたがる。怖いんだ。人と世間が怖いんだ。他人の価値観に対して、「教養」「高尚」なんていう価値観で、抵抗しなければと思っているんだ。

自分は馬鹿だ。弱虫だ。自分のことを馬鹿にしてるし、嫌ってる。自分の人生と現実が大嫌いなんだ。ありのままの自分を愛すること、受け入れることができないんだ。

愛とは何か。理解することだ。受け入れることだ。自分の理想と合致しているもの、自分の理想を脅かさないものだけを愛する、そんな風にはいかないんだ。

いま目の前の、俺の人生、俺の現実。評価する必要なんてない、ただ受け入れるだけだ。

海中に沈んだ都市が、徐々に浮かび上がってきて、見えなかったその全貌が見えるようになってきている。深いところから無意識を引っ張り出して、白昼堂々晒してやりたい。のたうちまわる深海魚。本質は醜悪でも美しくもない。ただそこに、意味を持たずに転がっているだけ。丸ごと全部自分なんだ。