カクレミノ

慌ただしい毎日を少しだけ忘れて、のびのびと綴っていきたいです

安心の回路

1日に何度も何度も不安になるんです。多分、安心を感じる脳の回路が、細いんだと思うんです。不安になると居ても立っても居られなくて、焦るんです。何かしなきゃ、何かしなきゃって。背後から崩れ落ちる橋を、必死に走り抜けるような、そんな気持ちになるんです。

この不安って何なんでしょう。将来が不安なわけではないんです。いや、将来は不安なんですが、この不安は、母親がいなくなった時の不安だと思うんです。分離不安?て言うんですかね。母親がいなくて、寂しい、心細い、安心させてほしい、子どもの頃に感じた不安と同じだと思うんです。

不安になりにくい人は、子どもの頃にたくさん抱きしめられて、安心感を得られた人なのではないでしょうか。抱きしめられて、安心を感じて、脳に太い安心の回路ができているのではないでしょうか。

僕はもしかしたら、そうではなかった。でも、今からでも、安心の回路を太くすることはできるのでは、と思っています。身近にいる誰かに抱きしめてもらえれば、僕の細い安心の回路が活性化するのではないでしょうか。そして、その時の感覚を、一人の時でも、感じ直すことができれば。

安心していいですか。安心していいですよね。大丈夫、僕は大丈夫です。

自我の確立

周りの人は皆大人に見える。輪郭があって、質量があって、中身があるように見える。自分の意思があるように見える。自分は、砂かゼリーでできている気がする。心細い。他人から少しでもぶつかられると、崩れてしまう気がする。怖い。

他人に入ってきてほしくない。自分も、他人に入り込みたくない。影響を与えたくない。でも、このままではつまらないなあ。もっと他人と関わって心を練りたい。今の心は柔らかすぎる。もっと手を入れて、耕して、弾力のある心になりたい。

中身があるように見える他人も、大して中身があるわけではない。結局、人でしかない…。

「自分は誰とも違う」という事を認めるしかない。自分は誰からも理解されない。自分は自分だけの人生を生きる。だけど、他人をはねのけない。他人の存在を認める。異なる考え方、異なる生き方をしている人が隣にいる。分かりあうことはできないけれど、認めることはできる。

静かに生きたい

静かに生きていきたい。激しい感情に接しないように、感じないように、静かに生きていきたい。

でも、どこかに、寂しいと感じる自分がいる。激しく、不安定で、危険な感情を求める自分がいる。悲しみや、怒りや、恨みを求めている自分がいる。

手に入らないものを求め、自分を苦しめようとしている。

解決できない問題からは立ち去ること。どうしても助けられない人だと知ること。自分の心を守ること。

無理して仲良くしなくていい。無理して好きにならなくてもいい。無理して求めなくていい。

気持ちを伝える

車窓から、春めいた街を眺めている。春になったら、新しい場所で、新しいことを始めよう。始まりの気配に高揚しながら、同じ電車に乗っていたのは、まだ1ヶ月前。まだ1ヶ月しか経っていない。この1ヶ月間、色々な場所で、色々な人に会った。実を結んだこと、結ばなかったこと。無理矢理にでも、人と話すことは、良いことだ。

ある程度仲良くなった人たちと、関係性を持続させることが難しい。責任が生じるし、常に相手に与え続けなければいけない気持ちになるから。

やりたくないなら、言葉にしよう。嫌なのに付き合うことの方が、悪いことかもしれない。きちんと言葉で気持ちを伝えよう。受け取り方は、相手次第。自分の気持ちを伝えよう。

無題

何をしていても虚しいと感じる時がある。自分自身が現実と繋がっていないようだ。やるべき事をやっていない時、こんな風に感じるのかな。しかし、やるべき事なんて見つからない。ご飯を食べて適当に楽しく暮らせれば、それでいいのだ俺は…。

大それた目標を持たなければいけない、常に成長し続けなければいけない、周りから強制されていない。自分でそう思い込んでいるのだ。

自分は、何もしなくていい。生きているだけ、その時その時に、目の前のことに夢中になるだけでいいのだ。

やりたいことが何もないから、ブログを書いている。今の自分にとって、ここに文章を書くことで、心のバランスを取っているのだと思う。

目的など、なくていいのだ。

映画「きみはいい子」を見ました

眠る前に、その日あった出来事や音声が、頭の中で自動再生される日がある。脳が出来事を処理しているんだろう。今日は、騒がしい子ども達の声が聞こえる。

きみはいい子、という、児童虐待をテーマにした映画を見たからだ。映画について少し書く。

一つの街で別々に起こる、子ども達をめぐる小さな物語。それぞれの子どもや、家庭の悩みが、周りの誰かによって救われていく。とても良い映画だった。

尾野真千子演じる、娘を虐待する母親。母親のヒステリーと、おびえる子どもの演技が迫真で、苦しくなる。虐待を行う母親も、傷を負っている。母親と子どもの、どちらにも共感してしまう。

高良健吾演じる小学校の教師。彼の恋人が登場する場面で、ヒップホップが流れていたのが、印象的だった。教師の顔と、若者の顔。先生も普通の人なんだよね。彼の受け持つ学級にも、虐待を受けていると思われる男の子がいる。

学習障害のある男の子と、認知症の老人の交流。障害や認知症を、純粋さと結びつけるのは、もしかしたら短絡的なのかもしれないが、仏壇の前で男の子が手を合わせる場面、そして、最後の「喜びの歌」に涙してしまった。

傷ついた三組の親子は、家族ではない「他者」によって救われる。こんな風に助けてくれる人が自分の周りにいたら、救われたのかもしれない。人を救えるのは、人しかいないのだ。

尾野真千子のママ友、池脇千鶴が言う「お節介なのかもしれないけど、言ってあげたいんだよね」が突き刺さる。境界線を乗り越えることは、ときには必要なことなのだろうか。

自分は、まだ、正しく境界線を越えて、人を救える人間ではない。自分が救えなかった、救わなかった、終わった関係の事を考えた。

小舟

終わってしまったものすべて、取り返しのつかないものすべて、小舟に乗せて、押し流す。すべてが遠ざかる。音もなく、終わっていく。霧の中で影が踊る。