風と緑

慌ただしい毎日を少しだけ忘れて、のびのびと綴っていきたいです

嫌いなら嫌いと認める

嫌いな人を無理に好きにならなくていい。嫌いなら嫌いと、きちんと認識することが大事だ。なぜこんなに嫌いなのか、自分の心によく問うてみることだ。羨ましいのか、自分の信念に反するのか。心の底から「ああはなりたくない」と思えたら、自分の姿が見えるはずだ。では、自分はどうなりたいのか、きちんと見えるはずだ。

自分はどうなりたいのか。自分はどう生きたいのか。他人目線ではなく、自分が心からなりたい自分は、どんな信念を持っているのか。自我を確立し、自分だけの目標を見つけたい。

行き詰まり

人生行き詰まってばかりいる。

冷静に考えると、何も不幸なことは起きていない。それどころか、見方によってはチャンスのような局面も、多々あった。

それら全てを見逃した、というより、恐れて逃げた。新しい経験、新しい自分、見知らぬ人、重荷や試練から、逃げて逃げて逃げ続けた。

なぜか?

恐怖、不安、恥、損をしないこと、予想がつくことが、自分にとって大事だからだ。うまく行くことよりも、想定の範囲内の失敗に収まることの方が、恐怖は少ない。

成長しない、長続きしない、何も為さない。だけど、無理して克服することはできない。

もしかしたら、克服する必要もないのかもしれない。成長しなくても良いのかもしれない。チャンスを惜しむ心、それは、単なる欲かもしれない・・・。

成長なんてしなくていい。成功なんてしなくていい。今日のこと、明日のこと、小さなことから始めてみよう。

静かに暮らしている

静かに暮らしている。久しぶりに音楽を聴いている。何をしても疲れてしまう。そんな気分の時もある。

Bill Frisell_Ghost Town_Poem for Eva - YouTube

何も無いところからはじめる

心の中に空洞がある。主体性がない。常に受け身。やりたいことがない。生きたい生き方がない。

穴わ、覗く。本当の自分の心を見つけて、自分のために生きるために。穴に潜る。手を伸ばす。深く潜る。

穴に潜って、驚愕する。穴に底はなかった。心の奥に、本当の自分はいなかった。何もなかった。空虚だった。空洞だった。

救い出す対象はいなかった。子どもの頃の自分はいなかった。どこまでも暗く、底がなく、ただ落ちていくだけだった。

空虚である。空である。無である。底がない。それを受け入れるしかない。本当の自分はいない。パンドラの箱の底に希望はない。永遠に虚無が続いている。

そのことを覚悟するしかない。何も無いところから、はじめるしかない。

言葉言葉言葉

言葉なんてなんの役にもたたない。言葉にした時点で意味が生まれる、形を持つ。定義される、分断される。

今必要なのは言葉ではなくて感情、感じること、衝動、感覚、見えること、聞こえること。言葉なんて役に立たない。

何かあるとすぐに言葉に頼りたがる。それはそうだ、言葉なしに思考することをしてこなかったから。受け止める、受け入れる、眺める、感じるだけでいいのに、意味を見つけたがる。

言葉を捨てたい、言葉から離れたい。本なんて読んだらいけない。スマートフォンの情報は言葉ばかり。

言葉が邪魔だ!!!

動物になりたい。狼にでもなって、思い切り駆け回りたい。遠吠えしたい。ルールなんてない世界で駆け回りたい、叫びたい、飛び跳ねたい、生きたい!!

適当

よく分からないけど、生かされてるっぽいな。生かされてるっぽいし、なんかまあ、適当に生きるか。

憎まれてもしゃーない。殺されないっぽいし、まあいいや。

あいつもこいつも、適当に生きてるっぽい。善人でも悪人でもないっぽい。勝手に生きて、勝手に死んでいくようだ。

まあ、好き勝手やってる。世の中も、人間も。聖なるものも、邪悪なものも、あんまりない。なんかまあ、適当に地球の表面でワチャワチャやっている。

あんまり正しさにこだわると疲れるし、下手すると死ぬ。かといって悪さをしても後で困ったことになる。なんとなく許し、なんとなく断り、なんとなく認め、なんとなく離れながら、なんとなく受け入れて、なんとなく生きる。

必ず手に入れたいものはない。失いたくないものもない。まあ、生きてみて、結果どうなるか。なんでもいいんだ。とにかく恐れたくない。

流れ。流れて生きたい。

記憶・イメージ

‪子どもの頃、泣き喚いていると、「もっと泣けもっと泣け」と親に囃し立てられていた。その時に「他人になにを言っても無駄だ」という性格になったのかもしれない。‬受け入れてもらえず、聞いてもらえないことで「他人に対して自分は無力だ」という価値観を身につけたのかもしれない。

子どもの時は手も足も出なかった。でも、今なら違うかもしれない。認めて欲しくて、泣き叫んで、それでも認めず、受け止めない、からかい、嘲笑う親に対して「いい加減にしろ!」と言ってやれるかもしれない。

低い声で「おまえ、いい加減にしろよな」と。実際に声に出してみる「おまえ、いい加減にしろよな」

そうするとどうなる?大人しくなるか、逆上してさらに挑発されるかだ。そうなれば、諦めて背を向け立ち去る。立ち去る背中越しに、また挑発の声が浴びせられる「あーあ!もう終わりなの!?つまんない!負け犬!」

そこで振り返らず、さらに俺は進む。さらに声は続く。

「あんた、私を見捨てる気でしょ!いいわよ!あんたなんていらないわよ!どこにでも行きなさいよ!」

記憶なのか、イメージなのか分からない。だけど、こんなパターンが簡単に想像できる。つまり、どこかで、似たようなことがあったのだろう。

今はもう、子どもじゃない。今はもう、非力ではない。手も足も出なかったのは、昔のことだ。うずくまって泣いている子どもの自分が、大人の自分になって、立ち上がる、自分の言葉を発する、決断する。

そんなイメージをすると、胸の奥のしこりが少し解きほぐれていくのを感じる。自分の気持ちを取り戻しつつあるのを感じる。