カクレミノ

慌ただしい毎日を少しだけ忘れて、のびのびと綴っていきたいです

ヘルマン・ヘッセ「知と愛」を読みました

われわれの思索は、絶えざる抽象であり、感覚的なものの無視であり、純粋に精神的な世界の建設の試みである。しかし君はまさに反対に、最も変わりやすく生命のはかないものを抱き取って、まさに無情なものの中に存在する世界の意味を告げ知らす。君は無常なものも無視せず、それに心を打ちこむ。君の献身によってそれが最高のものとなり、永遠なものの比喩となる。われわれ思索家は、世界を神から引き放すことによって、神に近づく。思索も芸術もともに、人間の作ったもので、不十分であるが、芸術のほうが邪心が少ない。

人間ははたして、祈りの鐘によって時間や行事を知らされる、規定された生活を送るように作られていたのだろうか(中略)人間は、神によって作られたとき、官能と衝動、血の気の多いなぞ、罪や享楽や絶望へ走る力を備えていたのではないか。

世界は常に変化し続ける。無常な世界の中に、どうやって確かなものを見つけるか。観念や思索により確かな価値観を築き上げようとする力、情欲や感覚により現実の中にある真理を感じとる力。人間の中にある理性と感情、その二つをどうやって統一するのか。

 

ヘルマン・ヘッセの「知と愛」を読んだ。原題は「ナルチスとゴルトムント」。修道院で出会った二人の若者、知性のナルチスと、愛情のゴルトムントが、互いの個性に影響されながら、自分らしい生き方に目覚めていく物語だ。

 
父に連れられ、マリアルブロン修道院に入ったゴルトムントは、若き見習い修道僧ナルチスに出会う。彼の知性と敬虔な信仰心に憧れたゴルトムントは、彼の様になりたいと勉学に励む。しかし、その願いとは裏腹に、ゴルトムントの本質は信仰や敬虔さではなく、激しい感情的なものだった。それを見抜いたナルチスから、君は芸術家になるべきだと告げられたゴルトムントは、当初反発する。しかし、最後にはナルチスの言葉を認め、修道院を飛び出し、愛欲と自由を求めて旅立っていく。
 
村から村へ旅し、行く先々で情事を重ね、挙句殺人にも及びながら、ゴルトムントは芸術家としての才能を伸ばし、彫刻家として腕を上げていく。しかし、とある事件により、あわやゴルトムントの命もここまでと思われた時…というのが大まかなあらすじだ。
 
「知と愛」を読んで強く感じたのは、放浪者の孤独と、死の恐怖だ。ヘッセの作品は大好きで、今まで色々と読んできたが、ゴルトムントの旅の様子は「クヌルプ」という中編によく似ている。寄る辺のない根無し草の悲哀や、全てを捨て去りたくなる生き方、そして季節ごとに移り変わる自然の描写にクヌルプを思い出した。
 
ただ、クヌルプの旅の描写に比べると、ゴルトムントの旅はもっと熱烈で過酷だ。飢え、寒さ、疫病、暴力により、いつ死ぬか(殺されるか)分からない、死の恐怖、そして数多くの死が生々しく描かれる。ヘッセ作品で、ここまで直接的に死が描かれるのは珍しいかもしれない。ただ、その反面、愛欲や生きることへの執着も強く、理屈ではなく本能の力、生きる力を強く感じた。他の作品と比べて、ドロドロとした生命力、生々しさを感じて、なかなか刺激が強かった。ヘッセ先生、振り切ったものを書いたなあ!
 
前述のクヌルプには大層感動したのだが、ゴルトムントがあまりに激しく、少し共感しかねる部分があった。その反面、ナルチスの背負っている、使命に準ずる生き方、責任感、その力は何処から湧いてくるものなのだろう、ということに興味を持った。
 
ナルチスの生き方は、この後に執筆された「ガラス玉演技」の主人公、ヨーゼフ・クネヒトの生き方を思い出させる。近いうちに、もう一度ガラス玉演技を読んでみようと思った。
 
しかし、ヘッセが「知と愛」の後に、ガラス玉演技を書いたということは、ヘッセの晩年の思想はどちらに向かって行ったんだろうな。