風と緑

慌ただしい毎日を少しだけ忘れて、のびのびと綴っていきたいです

何も無いところからはじめる

心の中に空洞がある。主体性がない。常に受け身。やりたいことがない。生きたい生き方がない。

穴わ、覗く。本当の自分の心を見つけて、自分のために生きるために。穴に潜る。手を伸ばす。深く潜る。

穴に潜って、驚愕する。穴に底はなかった。心の奥に、本当の自分はいなかった。何もなかった。空虚だった。空洞だった。

救い出す対象はいなかった。子どもの頃の自分はいなかった。どこまでも暗く、底がなく、ただ落ちていくだけだった。

空虚である。空である。無である。底がない。それを受け入れるしかない。本当の自分はいない。パンドラの箱の底に希望はない。永遠に虚無が続いている。

そのことを覚悟するしかない。何も無いところから、はじめるしかない。

言葉言葉言葉

言葉なんてなんの役にもたたない。言葉にした時点で意味が生まれる、形を持つ。定義される、分断される。

今必要なのは言葉ではなくて感情、感じること、衝動、感覚、見えること、聞こえること。言葉なんて役に立たない。

何かあるとすぐに言葉に頼りたがる。それはそうだ、言葉なしに思考することをしてこなかったから。受け止める、受け入れる、眺める、感じるだけでいいのに、意味を見つけたがる。

言葉を捨てたい、言葉から離れたい。本なんて読んだらいけない。スマートフォンの情報は言葉ばかり。

言葉が邪魔だ!!!

動物になりたい。狼にでもなって、思い切り駆け回りたい。遠吠えしたい。ルールなんてない世界で駆け回りたい、叫びたい、飛び跳ねたい、生きたい!!

適当

よく分からないけど、生かされてるっぽいな。生かされてるっぽいし、なんかまあ、適当に生きるか。

憎まれてもしゃーない。殺されないっぽいし、まあいいや。

あいつもこいつも、適当に生きてるっぽい。善人でも悪人でもないっぽい。勝手に生きて、勝手に死んでいくようだ。

まあ、好き勝手やってる。世の中も、人間も。聖なるものも、邪悪なものも、あんまりない。なんかまあ、適当に地球の表面でワチャワチャやっている。

あんまり正しさにこだわると疲れるし、下手すると死ぬ。かといって悪さをしても後で困ったことになる。なんとなく許し、なんとなく断り、なんとなく認め、なんとなく離れながら、なんとなく受け入れて、なんとなく生きる。

必ず手に入れたいものはない。失いたくないものもない。まあ、生きてみて、結果どうなるか。なんでもいいんだ。とにかく恐れたくない。

流れ。流れて生きたい。

記憶・イメージ

‪子どもの頃、泣き喚いていると、「もっと泣けもっと泣け」と親に囃し立てられていた。その時に「他人になにを言っても無駄だ」という性格になったのかもしれない。‬受け入れてもらえず、聞いてもらえないことで「他人に対して自分は無力だ」という価値観を身につけたのかもしれない。

子どもの時は手も足も出なかった。でも、今なら違うかもしれない。認めて欲しくて、泣き叫んで、それでも認めず、受け止めない、からかい、嘲笑う親に対して「いい加減にしろ!」と言ってやれるかもしれない。

低い声で「おまえ、いい加減にしろよな」と。実際に声に出してみる「おまえ、いい加減にしろよな」

そうするとどうなる?大人しくなるか、逆上してさらに挑発されるかだ。そうなれば、諦めて背を向け立ち去る。立ち去る背中越しに、また挑発の声が浴びせられる「あーあ!もう終わりなの!?つまんない!負け犬!」

そこで振り返らず、さらに俺は進む。さらに声は続く。

「あんた、私を見捨てる気でしょ!いいわよ!あんたなんていらないわよ!どこにでも行きなさいよ!」

記憶なのか、イメージなのか分からない。だけど、こんなパターンが簡単に想像できる。つまり、どこかで、似たようなことがあったのだろう。

今はもう、子どもじゃない。今はもう、非力ではない。手も足も出なかったのは、昔のことだ。うずくまって泣いている子どもの自分が、大人の自分になって、立ち上がる、自分の言葉を発する、決断する。

そんなイメージをすると、胸の奥のしこりが少し解きほぐれていくのを感じる。自分の気持ちを取り戻しつつあるのを感じる。

本当のこと

仕事をしたくない。努力をしたくない。これ以上、好きでもないことを学びたくない。遊んで暮らしたい。好きなことだけやって暮らしたい。人に合わせたくない。人の言うことを聞きたくない。自分のためだけに生きていたい。

俺は抑圧された人間ではない。ものすごく自分勝手で我儘な人間だ。あれも嫌、これも嫌、お前なんて知らん、俺様だ。

自分が3歳児だった。自分が子どもだった。本当の意味で他人に合わせることも、気を遣うこともできず、ただ形だけ従順に、人に逆らわず生きてきた。本当はちっとも従順でなかった。だから憎しみが積もり積もって、無気力になった。

俺は我儘だった。傍若無人だった。自己中だった。愛がなかった。協力がなかった。信頼もなかった。

これでは人と繋がれないのも当然だ。今になって、ようやくヒントが見えてきている。

チョコレートエッグ

仕事、家庭、友人、本当にこんなことがやりたかったのか。いやいや付き合う友達、いやいややってる仕事、無理矢理に納得させようとする。「俺はこの仕事が好きだから」「この人たちは友達だから」

そうやって自分の心が分からなくなる。こんなことをやっていても、自分の感情から遠く離れるばかりだ。「◯◯さんがそう言っているから」「自分の感覚はおかしい」

自分に誠実でないものは他人に対して誠実ではあり得ない。

嘘の自分、チョコレートエッグの殻だけがどんどん大きくなっていく。膨れ上がった殻を皆が評価する。みんなが俺の殻に声をかける。そんな人はどこにもいないのに。本当の自分は殻の中。干からびたレーズンみたいにちっぽけだ。膨れ上がった空洞の中で乾いた音をたてる。

楽しめるか

自分の心とつながっている。自分の感覚が分かる。自分の感情が分かる。でも、それは恐ろしいことでもある。今まで価値があると思っていたものが、自分にとって必要のないものだと分かる。興味がないのに、嫌いなのに、好きだと思い込もうとしていた。自分にとって大切なものではなかった。今自分の周りにあるものは、何もない。自分の周りに誰もいない。自分だけここにいる。

好きなことはある。それをして生きるのか。それが生きがいなのか。そんなことが許されるのか。楽しむことを許可してこなかった。楽しむことに罪悪感を感じる。そんなことをしている場合なのか。

誰のための人生なのか、会社のための人生なのか、家族のための人生なのか、世間のための人生なのか。

自分のための人生である。自分のためだけの人生である。責任と、楽しみを両立することができるか。本当にそんなことができるのだろうか。