風と緑

慌ただしい毎日を少しだけ忘れて、のびのびと綴っていきたいです

無題

何をしていても虚しいと感じる時がある。自分自身が現実と繋がっていないようだ。やるべき事をやっていない時、こんな風に感じるのかな。しかし、やるべき事なんて見つからない。ご飯を食べて適当に楽しく暮らせれば、それでいいのだ俺は…。

大それた目標を持たなければいけない、常に成長し続けなければいけない、周りから強制されていない。自分でそう思い込んでいるのだ。

自分は、何もしなくていい。生きているだけ、その時その時に、目の前のことに夢中になるだけでいいのだ。

やりたいことが何もないから、ブログを書いている。今の自分にとって、ここに文章を書くことで、心のバランスを取っているのだと思う。

目的など、なくていいのだ。

映画「きみはいい子」を見ました

眠る前に、その日あった出来事や音声が、頭の中で自動再生される日がある。脳が出来事を処理しているんだろう。今日は、騒がしい子ども達の声が聞こえる。

きみはいい子、という、児童虐待をテーマにした映画を見たからだ。映画について少し書く。

一つの街で別々に起こる、子ども達をめぐる小さな物語。それぞれの子どもや、家庭の悩みが、周りの誰かによって救われていく。とても良い映画だった。

尾野真千子演じる、娘を虐待する母親。母親のヒステリーと、おびえる子どもの演技が迫真で、苦しくなる。虐待を行う母親も、傷を負っている。母親と子どもの、どちらにも共感してしまう。

高良健吾演じる小学校の教師。彼の恋人が登場する場面で、ヒップホップが流れていたのが、印象的だった。教師の顔と、若者の顔。先生も普通の人なんだよね。彼の受け持つ学級にも、虐待を受けていると思われる男の子がいる。

学習障害のある男の子と、認知症の老人の交流。障害や認知症を、純粋さと結びつけるのは、もしかしたら短絡的なのかもしれないが、仏壇の前で男の子が手を合わせる場面、そして、最後の「喜びの歌」に涙してしまった。

傷ついた三組の親子は、家族ではない「他者」によって救われる。こんな風に助けてくれる人が自分の周りにいたら、救われたのかもしれない。人を救えるのは、人しかいないのだ。

尾野真千子のママ友、池脇千鶴が言う「お節介なのかもしれないけど、言ってあげたいんだよね」が突き刺さる。境界線を乗り越えることは、ときには必要なことなのだろうか。

自分は、まだ、正しく境界線を越えて、人を救える人間ではない。自分が救えなかった、救わなかった、終わった関係の事を考えた。

すべての不安は死ぬことへの恐怖

仕事がなくなったらどうしよう。人に見捨てられたらどうしよう。将来どこに向かうのか分からない。どうなる、失敗する、居場所がない。怖い。不安だ。

悩みや不安は現実に向けられているようで、本当に恐れているのは、現実的なことではない。本当に恐れていることは、死ぬことだ。

根源的な死の恐怖。それをかき消すために、行動する。少しでもより良くなるため行動を始める。そうすると、気持ちが少し軽くなる。不安が軽減され、前向きな気持ちになってくる。

仕事、アルコール、恋愛、様々なものから、楽しい気持ちを得ようとする。もっともっと、強い刺激を求める。それは依存のはじまりだ。

何が怖い?何が不安なんだ?自分は、死ぬことを恐れている。無意識下にある、死への恐怖が発火する。現実が恐ろしいのではない。死ぬことが恐ろしいのだ。

自分は死を恐れている、そのことが分かれば、死への恐怖はなくなるか。死すら恐怖ではなくなる、それは悟りの風景だろうか。

自分は死なない、死は恐怖ではない。そう思えるだろうか。

ここにいる

メランコリー親和型

精神的に弱い、そう言ってしまうと、自分に対するイメージが固定されるので、弱いとは言いたくない。ただ、自分の使い方を知らない、生きのびる術を知らない。そのことは、弱いと言えるかもしない。

メランコリー親和型、循環気質、気分変調整障害、回避型愛着、回避性パーソナリティ障害、どんな呼び方でも構わないが、おそらくそういった気質だろう。この気質を矯正しようとしてはいけない。矯正はできないのだ、残念ながら。

苦しみや、不安の原因は、セロトニンが足りない、という体質が原因なのか。脳も臓器なら、それは精神に問題があるのではなく、肉体の問題なのではないか。

他人に心を開かず、冷たく、孤独な道を歩んできた。しかし、安心感、信頼感、受容されること、穏やかで暖かな人間関係、そういったものがなければ、生きていけない体質の人間なのだ、自分は。そして、そのことは、情けなくも、弱くもないのだ。

失ってしまった世界との絆を、もう一度取り戻せるか。他人の中に、もう一度、愛を見出せるか。自分自身が受け入れられていることを、感じられるか。

自分はここにいる。自分はここにいる。あなた方のとの関係性の間、どんな小さな隙間にも、愛はある。私はここにいる。あなたがたとともに、ここにいる。世界に点在する愛に、繋がって、ここにいる。

支えあえなかった

ずっと一人で歩いていたようだ。雑踏の中で、常に一人、心の中は嵐か、闇夜のようだった。原因はなんだったのか。一言で言えば「無理をしていた」のだろう。何に対して、いつから、そんなこともわからないくらい前から、ずっと無理をしていたのだ。きちんとやらなければ、遅れを取り戻さなければ、失格する、脱落する、馬鹿にされる。そんな恐怖と不安の中で、ずっと震えていた気がする。誰にも助けを求められず、寄りかかりたいのに、寄りかかれない。人を信用できず、人に甘えられず、人を責め、他人を疑い、憎しみ、自分を責め、恨み、傷つけてきたのだな。

頼ってもよかったし、逃げてもよかった。結局、誰にも頼ることはできなかった。逃げることしかできなかった。

頼るということが、相手にとって迷惑だろうと思っていた。しかし、頼られないということも、相手にとっては悲しいことかもしれない。自分が相手を信用できなかったのか、それとも相手が信用に足る人物でなかったのか。それは、分からない。どこかに自分を助けてくれる人がいたかもしれないのに。頼れる人をみつけられなくて、ごめんよ、自分。

無理しない

無理して苦手な人と付き合う必要はない。自分の心を一番大事にすること。自分の価値観を一番大事にすること。他人の価値観や、世間の価値観に惑わされないこと。自分は何を大切にしているのか、どんな生き方がしたいのか、よく考えてみること。 自分の心に問いかけてみること。本当に、その人が、好きなの?本当に、今いる場所が、好きなの? 合わない服は脱ぐこと。歩きにくい靴は捨てること。思い切って道を変えること、流れを変えること。